「先生、京一を知りませんか」 放課後の薄暗い廊下で、犬神は龍麻に呼び止められた。 授業が終わってから随分たっている。犬神はちらりと自分の腕時計を見やった。 午後7時を回っている。外はもう日が落ちていて完全に暗い。 部活をやっている生徒でなければ、校内に残っているには少々不自然な時間だ。 「緋勇…こんな時間まで何をやっているんだ?」 「いや、京一を待ってるんですけど…」 そう言って龍麻は軽く肩をすくめた。 普段は詰襟の学生服に身を包んでいるはずの龍麻は、今はその上着を脱いでいる。 Yシャツ姿というのに何だか違和感を感じ、犬神はまじまじと龍麻を見つめた。 「…先生?」 「…あ、ああ」 今向けてしまった妙な視線をごまかすかのように、犬神はもう一度腕時計を見た。 「蓬莱寺なら、補習だ」 「……はあ?」 龍麻が気の抜けた返事を返す。 「マリア先生にさっき捕まっていたな。先日の小テストが全部判るようになるまで帰さないとか言われていたんだが…この時間ならまだ帰れるようにはならんだろう、蓬莱寺は」 「…そう…かも」 龍麻はそう言って犬神の側によると、腕時計を覗きこむ。 少し見にくいのか、龍麻は首をかしげる素振りを見せた。それに気付いた犬神は、腕を龍麻の方に傾けてやる。 「もうこんな時間なんだ…どうしようかな、俺…」 腕時計を見つめたまま、憮然とした表情で龍麻が呟いた。 「何だ、一緒に帰る約束でもしてたのか」 「…まあ、それもあるんですけど…」 「ラーメンか?」 「…それもあるんですけど…」 はっきりしない答えに、今度は犬神の方が首をかしげた。 何か言いかけて龍麻の方を見ると、犬神は、普通の人間なら気付かないであろう微妙な龍麻の変化に気がついた。 『氣』が昂ぶっている。 ともすれば金色に光って見えそうな龍麻を包む『氣』が、陽炎の様に身体から立ち昇っている。しかしそれは決して乱れたものではなく、制御され、よく練れた『氣』であった。 言わば、戦闘に臨む際の『氣』。 「なるほどな。手合わせの約束か…」 「!」 龍麻は驚いて顔を上げた。大きく見開いた目が犬神の視線とぶつかる。 「どうして…」 「その様子だと…な」 龍麻が上着を脱いでいるのは、軽く身体を動かしていたせいらしい。そう思って見ると、いつもは詰襟に隠されていて見る事のないその首筋に、黒く柔らかい髪が汗で2、3本貼り付いているのが目に入る。 犬神は、目をそらす機会を逸した。 黙り込んだまま、薄闇の中に浮かぶ白い肌を見つめ続ける。 暫くの沈黙の後、先に口を開いたのは龍麻の方だった。神妙な顔をして、小さな声で犬神に問い掛ける。 「…駄目、ですか?」 突然投げかけられた質問に、犬神はようやく我に返った。視線をずらすと、龍麻が眉をひそめて自分を見ている。 「何がだ?」 何を否定されたと思ったのか判らず、逆に犬神は龍麻に尋いた。 「その…手合わせって、やっぱりまずいですか?」 沈黙して自分を見ていたその犬神の視線を、龍麻は「手合わせ」という行為を見咎められたものととらえてしまったらしい。 確かに「武術の鍛練、修練」といった言葉を使えば聞こえはいいものの、一歩間違えば単なる校内での私的な喧嘩と変わらない。 だが、龍麻達に限って言えば例え「喧嘩」でもさして心配は要らない事を犬神は知っていた。 闘う、という事を知らない連中ほど、喧嘩は大惨事を招きやすい。力の加減もわからず、精神的な抑えもきかなくなる。 「お前等なら別に構わん。そんな事もないだろう」 犬神がそう言うと、龍麻はふう、と肩の力を抜いた。だが、安堵の表情は一瞬しか見せなかった。 きゅっと唇を結び、胸に手をあてた。まるで自分の中の何かに制止をかけるかのように。 「――――心します」 そう言って、龍麻は真剣な眼差しを犬神にむける。 ほどほどにな、と言って、龍麻の背中をポンと叩こうとして…犬神は龍麻に触れる直前にその手を止めた。 龍麻の、先程からの『氣』に指が触れた。 途端、チリチリと、全身が総毛立つのが判る。背中を走るぞくりとした感覚。突然感じる、喉の渇き。 頭をもたげる、獣性。 自分の中に起こった変化に、犬神は少なからず驚いた。 今日の月齢は、16。満月は過ぎた。 にもかかわらず、身体の中を凄い勢いで血が巡っているのが判る。鋭くなった耳に、自分の心臓の鼓動が響く。 そしてもう一つ。目の前にいる、龍麻の心臓の音が重なって聞こえる。 拳を握り締めると、伸びて尖った爪が手のひらにあたる。 犬神は苦笑した。 緋勇の闘気に煽られるとは、自分も思った以上に未熟なもんだ… 手合わせに対して、注意できようはずもない。むしろ… ふ、と笑いを漏らすと、犬神は改めて龍麻に声をかけた。 「緋勇。――――俺でよければ付き合うが?」 「えっ?」 犬神に背をむけていた龍麻は、驚いて振り向いた。 薄暗い廊下。先程より少し距離をおいて犬神が立っている。 口元に笑みを浮かべている。が、ちょうど影の中に立っている為、それ以外の表情は読み取れない。 犬神の発言の意図が判らない。 龍麻は、今聞いた言葉そのものを疑い、改めて聞き直す。 「先生…今、なんて…」 返ってきた答えは。 「―――闘いたい、だろう?緋勇」 その言葉に、龍麻は息をのんだ。 答えるべきか。 ――――――何と? ゆっくりと、犬神が近づいてくる。龍麻は、一歩だけ後ずさった。 しんとした空間に、犬神の足音だけが微かに聞こえる。 龍麻の身体は、意識と関係なく臨戦態勢に入っている。 意識だけが、追いつかない。 一瞬、闇の中に完全に犬神の姿が溶け込んだ。 思わず、龍麻は身構える。 だが、闇から姿をあらわした犬神は、龍麻の予想に反して穏やかな表情を浮かべていた。 目を細め、苦笑しながら犬神が言う。 「ふ…それとも俺では役不足か」 その態度に、龍麻はふと強張った身体の力を抜いた。 「あ、いえ、そんな訳じゃ…」 言いかけて。 次の瞬間。 ダンッ!と、廊下に響き渡る大きな足音とともに、龍麻は後ろに飛び退いた。 自分が油断した瞬間に突如感じた犬神の「闘気」。 総毛立つ感触のそれは、むしろ闘気というよりは…獣の「殺気」――― 飛び退いた先で体勢を立て直し、龍麻は犬神の方を勢い睨み付けた。 しかし、視線の先にいるはずの犬神の姿はない。 「―――!?」 瞬時、身体が硬直する。 犬神の気配は自分の左後ろ…すぐ脇にあった。 「…っ」 龍麻が身を捩り、その視界に犬神を捕らえる前に、犬神は手の甲で龍麻の脇腹を殴った。 ドスッという鈍い音と共に、龍麻の身体が廊下の横の壁までふっとんだ。 だがしかし、音の割には犬神の感じた手応えは浅い。 「ふ…ん」 犬神は感心したような声をもらした。 龍麻が、脇腹を押さえながらゆっくりと立ち上がる。やはり、犬神が思った程のダメージは与えていないようだ。 脇腹の痛みを散らそうと、龍麻は一回大きく息を吐いた。 つ…と背中を冷や汗が走る。 殴られた瞬間、咄嗟に自分から飛んでダメージを軽減させたものの、これが手でなく獣の牙だったとしたら…間違いなく腹を喰い破られている。 顔をあげて、今度は確実にその瞳で犬神を見据えた。 笑っている。 その双眸が、闇の中わずかに差し込んでいる月の光を反射している。 金色に光る、獣の瞳。 愉悦を含んだ声で、犬神は改めて龍麻に尋いた。答えは、聞くまでもないのだが。 「…どうする?緋勇…」 龍麻は俯き、もう一度大きく息を吐いた。そして、静かに息を吸う。 闘いの意識が覚醒する。 ゆらりと、龍麻の身体から先程とは比べ物にならない『氣』が立ち昇った。 ゆっくりと顔をあげる。 長い前髪に隠されてその瞳は垣間見る事すらできない。 だが、彼の声が。 「…お願い、します―――」 犬神の「申し出」を受けてたった。 闘える嬉しさを隠し切れずに。 |