日曜日。 犬神は、朝の10時過ぎまで布団を頭からかぶって寝ていた。 ただでさえ、朝は苦手だ。加えて現在は月齢も低い。身体の調子がいいわけがない。 できればこのまま一日中寝ていたい。 しかしその希望も、アパートのドアを乱暴に叩く大家によって打ち砕かれた。 「犬神さん!ちょっと、犬神さん!いるんでしょ!」 はあ、と盛大にため息をつくと、犬神はのろのろと布団から起き出し、その辺に投げてあった着替えに袖を通す。 「はいはい…少し待ってください…」 言いながらドアを少しあけると、そこに身体を割り込ませるようにして強引に大家が玄関先に入り込んできた。 「はい、回覧板!ちゃんと見て早めに回してくださいよ!」 そういって、手に持ったファイルを犬神に突き出した。 …それだけの事でこんな大騒ぎして起こされたのか… 犬神は、起きたばかりだというのに一気に疲れ果てた。生返事をしてしょうがなくそのファイルを受け取る。 大家は、不遠慮に玄関から部屋の中をじろじろと覗いた。 「まったく、だらしがないわねえ、先生のくせに…」 お世辞にも片付いているとは言えない部屋を見て、大家がまくしたてる。 「だいたい、生徒にもしめしがつかないでしょ、そんなんじゃ。もっと身なりだって整えて…」 云々。犬神は欠伸をかみ殺しながら聞き流していた。 大家の、この手の文句は聞きなれている。 決して悪意から文句を言っているわけではないのだ。悪い人ではない。ただ少々おせっかいが過ぎるだけで… しかし、今日はなんとなく大家の態度が違うという事に犬神は気がついた。 いつもなら言うだけ言って「しゃんとしなさいよ!」と背中を叩いたくらいにして去っていくのだが、何だか今日は一言一言いう度に、人の顔を覗き込んでいる。 何か他に言いたい事があるらしい。 「……なんですか?」 大家の言葉の合間に、犬神は尋いた。 「ああ、いえね犬神さん、そろそろお嫁さんでももらう気ないの?」 「はは…」 犬神は苦笑した。前にも何回かこんな話をされている。マリア先生を相手に上げられた時なんかはさすがに参ったが… しかし、次に大家が言った事は。 「犬神さん、お見合いしてみない?」 「――――――――は?!」 思ってもみなかった台詞に、犬神はつい大声を上げた。構わず大家が続ける。 「ちょうどね、いいお話があるのよ!相手の方ちょーっと年上なんだけどね、」 「い、いや、ちょっと待ってくださいよ…そんな…」 一気に話を進めてしまいそうな大家に、流石に犬神は制止をかけた。 そういう話はちょっと今は…などととりあえず曖昧に断りをいれつつ、玄関から大家を追い出す。 バタン、と安普請のドアが音を立ててしまる。 犬神は深くため息をついて、部屋の中へと戻った。 …すっかり目が覚めてしまった… 無理矢理欠伸をひとつ作ると、犬神はあたりを見渡す。 そして、「他にやる事もないから」といった表情で、足元に脱ぎ散らかしてある服を拾ってたたみはじめた。 片付け始めてからほどなく、またドアをノックする音が聞こえた。 先ほどの大家と違い、軽いノックの音。 来客に全く心当たりのない犬神は、不審そうに首を傾げながら再び玄関へと向った。 ドアをゆっくり開ける。 目の前に立っていたのは、教え子だった。 「…緋勇…」 「おはようございます、先生」 龍麻は、軽く頭を下げた。そして顔を上げると、申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「…すみません…お休みの日のこんな時間に…」 謝られて、犬神はようやく自分が機嫌の悪そうな表情を引きずっていたことに気がついた。ふと自分の額に手をやると、眉間にしわが寄っていることが判る。 「ああ、いや…構わん。ちょっと他のことでな…」 一応弁解をし、顔をさすって表情を和らげる。 「まあ、とりあえず中に入れ。散らかっているがな」 「え、いや…そんなたいした用事じゃないんで、ここでいいんですが」 そう言って玄関先に立ったままの龍麻の腕をつかんで、犬神はなかば強引に引きずり込んだ。 「お前はよくても、俺が落ち着かん。今日は特にだ。いいから入れ」 「え、ええ?…じゃ、お邪魔します…」 犬神はざっと外の様子を伺ってから玄関のドアを手早く閉める。 その様子を見て、龍麻は小声で犬神にささやいた。 「…なんか、見つかるとまずいんですか」 「まずいというか…まあ、ちょっとな」 「…借金取り…」 「違う」 真面目に即答した犬神に、思わずくすっと龍麻は笑いを漏らした。 つられて犬神も、ふっと笑いを浮かべる。 テーブルの脇にぽんと座布団を投げ、龍麻をそこに座らせてから、犬神は流しに向かった。 「コーヒーでいいか」 背中越しに尋くと、お構いなく、という答えが返ってくる。 大きなマグカップ2つにコーヒーを注ぎ、そのうち1つに砂糖とミルクを入れ、犬神はテーブルの方へと戻った。 ミルクの入った方を龍麻に差し出し、自分は立ったままブラックを一口すすってから腰を下ろす。 白い湯気とコーヒーの香りの向こうから、龍麻が口を開いた。 「先生…」 「ん?」 「俺の教科書、知りませんか。先日うっかりして生物室に置いてったんですけど」 「ああ…」 あれか、と言って犬神は近くにある自分の鞄を座ったまま引き寄せた。 中から取り出した生物の教科書は、ところどころ軽く開きぐせがついている以外は、新品同様のきれいなものだった。 「教科書がきれいなのはあまり感心しないな…勉強してるか?」 皮肉っぽい笑みを浮かべて、犬神はそれを龍麻に手渡す。すました顔で龍麻が答えた。 「してなきゃ、取りになんてきませんよ」 「…違いないな」 目を細めて、犬神は再びコーヒーに口をつけた。熱いコーヒーが喉を通っていくのが心地よい。 ふう、と一息つく。ようやく落ち着いた気分になった。 犬神は、目の前にいる生徒をそれとなく見つめた。 長く伸びた前髪の間から、時折柔らかい光を帯びた黒い瞳がのぞく。 静かな、落ち着いた容貌。 マグカップを持つ、とても武骨とは言えないしなやかな指。 白のカッターシャツにジーンズという服装は、身体にぴったりと合っているせいか、学生服姿より細身に見える。 こうして、何を話すでもなく犬神の静寂に付き合っている時の龍麻は、随分と大人びた印象を与える。 学校で仲間達といる時には、こんな雰囲気の龍麻を見る事はほとんどない。 むしろ、京一達とふざけあって大笑いしている様は悪ガキに近い。 最初は、龍麻が「どちらか」に合わせるのに無理をしているのではないかと思ったが、そうでもないらしい。 無意識のうちに相手の雰囲気を鏡の様に自分に映し出す、長けた処世術。 そんな年不相応なものを身につけているという事は、龍麻の今までの人間関係が必ずしも安穏としたものではなかった…という事を物語っている。 もちろんそれは人間関係だけではなく。 決して大きいとはいえないこの身体のどこにあれほどまでの「強さ」を隠し持っているのか。 弱い人間を見飽きて辟易していた犬神にとって、人に頼る事なく毅然とした態度を取り続ける龍麻は、見ていて小気味よく、そして…少々残念でもあった。 ―――甘えさせてみたい。 守ってやりたい、というようななまぬるい「父性」などという感情ではない事を、犬神は自覚している。 頼って欲しい。縋ってもらいたい。自分にだけ。 自分だけが特別でありたいと願う、質の悪いその感情は。 犬神は、自然と龍麻に手を伸ばした。 目にかかる前髪を、さらさらと指で梳く。 「…なんですか?」 龍麻は、露わになった瞳をゆっくりと犬神の方へむけた。 犬神はその問いには答えずに、前髪を弄んでいた手を頬の方へと滑らせた。 片手で包むように頬を撫でると、龍麻は少し目を細めてその手に擦り寄るような仕種をする。 どちらからともなく顔を近づける。 その静寂を壊さないよう、ゆっくりと。 犬神を映していた龍麻の瞳が揺れ、ふと長い睫毛が伏せられる。 頬を撫でている手が顎の方へと下り、その親指が龍麻の唇を辿った。 お互いの吐息をその唇で感じ取り、そのまま影が重なるように… その瞬間。 静寂は、けたたましいノックの音によって無惨にも破られた。 「ちょっとお、犬神さん!お話があるんだけど!犬神さん!」 「……」 犬神は、既に本日何度目かになる、盛大なため息をついた。 目の前にいる龍麻はといえば、黙って俯いている。いきなり気恥ずかしくなったらしい。耳まで紅く染めている。 そんな龍麻の頭をくしゃっと撫で、犬神はそのままその頭を抱き寄せた。 「やれやれ…朝からうるさい大家だ…」 「大家さん?…って事は…」 「何だ」 「…家賃の取りたて…」 「違う」 照れ隠しにふざけてみせる龍麻を、自分の胸に押し付けるように強く抱きしめる。 そして名残惜しそうに龍麻を解放すると、肩を落として、迷惑極まりない訪問客のいる玄関へと足を運んだ。 玄関のドアを開け、犬神は目の前にいる大家に来客中の旨を伝える。 しかし大家はそんな事はお構い無しに、いきなり自分の要件を犬神に告げた。 「さっきの話なんだけどね。相手の方、二つ隣りの部屋に入ってる人の親戚なのよ。それでね」 「!?」 犬神はぎょっとして目を見開いた。まさかその話を蒸し返されるとは思ってもみなかったのだ。 咄嗟に制止の言葉が出ずに固まった犬神を前に、これ幸いと大家は話を続ける。 「再来週あたりにちょうどこちらにいらっしゃるそうだから、そんな改めた席を設けるって訳じゃなくてね。ちょっとこのへんの玄関先ででも顔見せてご挨拶がてらお話でもね。」 「…い、いやその…」 「いいじゃないのそれくらい。ね。再来週の日曜日はちゃんと家にいなさいよ?いいわね!」 命令口調で勝手に念を押すと、大家は犬神にぽんと写真を一枚手渡した。 そして犬神が反論しだす前に、さっさと玄関から立ち去る。 「あ、ちょっと…」 唖然とする犬神。 部屋を見ると、龍麻も同様に唖然としていた。 「…何だったんですか今の…」 「……ああ…」 犬神は、龍麻にどう説明したものかと躊躇する。 ふと、握らされた写真に目をやってみる。それはスナップ写真だった。 ラフな格好をした女性が写っている。おそらくはお見合い写真の代りという事で手渡されたのだろう。 沈黙している犬神の横へ、龍麻が立ち膝のままズルズルと移動してきた。 手に持った写真を覗き込む。 「…はめられましたね…」 「…察しがいいな…」 しっかり写真まで用意されたくらいだ。大家一人の思いつきではなく、おそらくは周りの親戚なども結託しての計画だろう。 ひょっとしたらこっちの写真も向こうの手に渡ったりしているのかもしれない。 写真をテーブルの上に投げ出すと、大きく息をついてその場に座り込む。 龍麻は、置かれた写真を手に取って暫く眺めていた。 「優しそうな人ですね」 「世渡りが上手いな、緋勇」 写真の中の女性は、確かに幾分犬神より年上に見え、また「見目麗しい」という訳でもなかった。 無難な誉め言葉、というやつである。 写真をテーブルの上に戻すと、龍麻はそおっと犬神の顔を覗きこんだ。 「…で、『お見合い』…するんですか?先生」 「っ…何を馬鹿な…」 そう答えて、犬神は心底困ったように頭を抱えた。 どう考えてもこの状況では…『お見合い』は免れなさそうである。自分の意志に関係なく。 ふと顔を上げると、無表情な龍麻と目が合った。 そんな顔をしているときの龍麻は、本当に何を考えているのか看破できない。 こんな状況に陥った自分を見て、茶化したいのか心配しているのか…怒っているのか…妬いてくれているのか…。 …自分こそ何考えてるんだか…と、犬神は頭を掻いた。 改めて龍麻を見つめる。長い睫毛が、瞬きをする度に揺れている。 失礼な話だが、写真の女性より遥かに綺麗だ。 いっそ「心に決めた人がいる」といって龍麻を紹介でもしてやろうか、と自虐的な事まで考える。 しかしそれでは龍麻も誘爆する。まあいくらなんでもそれは出来ないとして…いや…しかし… 犬神は一旦俯いて、それから意を決したように顔を上げた。 突然、龍麻の両肩をがしっと掴む。 「せ、先生?」 いきなりの事に、龍麻は流石にびっくりした表情を隠せなかった。 犬神はその両肩にかけた手に力を込めて龍麻に告げた。 「お前に…頼みがある」 犬神のアパートから出てきた龍麻は、先程の犬神よろしく苦悩の表情を顔に貼り付けていた。 額に手をやり、眉間にしわを寄せ、たまに立ち止まっては大きくため息をつく。 端正で少し陰のある、憂いを帯びたその横顔に、すれ違う人の全てが振り返り、また感嘆のため息を漏らしたり頬を赤らめてみたり潤んだ目を向けてみたり… だが、誰も彼の悩んでいる内容など判らない。 龍麻の方も、そんな周りの人の反応など全然気がついていない。 犬神の「頼み」以外は完全に頭から抜け落ちていた。 そして自分のマンションに辿りつくまで、龍麻は犬神の処に何をしにいったのかすら…失念していたのである。 「…あ、教科書…忘れてきた……」 |