不安定な。



放課後の生物準備室で、犬神はあからさまに嫌そうな顔をしていた。
「…ったく、どうしてお前こんな簡単な問題もわからないんだ」
目の前の生徒―――蓬莱寺京一は、これまた負けじと不機嫌な顔をしている。
「んな事いったって、わかんねーもんはわかんねーよ!」
「お前のは、わかろうとしていないだけだ。もう少しでも努力くらい、したらどうだ」
「てめえの教え方がヘタなんだよ」
「他の生徒はできているだろう。それは理由にならんな」
犬神はくわえていた煙草を不味そうに揉み消した。
そして、自分の机の上に置かれた京一の答案用紙を指ではじく。
惨澹たる結果のそれを見ても、京一は別に悪びれる様子も何もない。
どうやら日常茶飯事のようだ。
「…もういいだろ?先生様よお…」
しばらく黙り込んでいた(どうも反論が思いつかなかったらしい)京一が、入り口をちらちらと見ながら言う。よほど帰りたいとみえる。
「なにか用事でもあるのか?」
「今日ひーちゃんと買い物行く約束してんだよ」
「…緋勇と?」
「おう、待たせるとわりいじゃん」
「……」
この期に及んで私事を最優先させる京一に、犬神は呆れ果てた。
大仰にため息をついて手をひらひらと振る。
「ああ、わかった。もう帰っていい」
「やりぃ!」
しかし犬神は、小走りで出ていこうとする京一を呼び止めた。
机の上から適当な生物の専門書を取り出し、ばらばらっと目を通し、それを京一に投げ渡した。
「…っと、なんだよこれ」
「宿題だ。その本の第2章を読んで、明日までにレポート10枚程度にまとめてこい」
「ええーっ!?何だそりゃ!」
「早く帰りたいんだろ?だったらその分家でやってこい」
「…ちっくしょう…」
「出さなかったらこの今回のテスト、追試なしで問答無用で赤くれてやるからな」
「てめえ!やり口きたねえぞ!」
「ふん…じゃ、今補習受けていくか?」
その言葉に京一はぐっと黙ってしまう。そしてさっきより不機嫌さに拍車のかかった顔で犬神を睨み付けた。
「……ありがたく帰らせていただくぜ」
そう言うと、京一は入り口のドアを力任せに勢いよく開け放った。
バァンッ!と、校内中に響き渡るような音がした。ビリビリッと窓ガラスが鳴る。
「京一!」
廊下から驚きの色を含んだ龍麻の声が聞こえた。
「わりぃひーちゃん、待たせちまったな」
嬉しそうな声をだしてひょいっと生物準備室から出ていく京一。準備室のドアは開けっ放しだ。
「なにやってんだよ京一、ドア乱暴にあけて。びっくりしたじゃないか」
「あー?気にしない気にしない。それよりさー…」
遠ざかっていく2人の声を聞きながら、やれやれ…と呟いて犬神はドアを閉めにいく。
ふと、なんとなく2人の歩いていった方に目をむける。
楽しそうな笑い声。京一が、ふざけた様子で…龍麻の肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。
じゃれつかれてちょっとバランスを崩した龍麻が、こら京一、と笑いを含んだ声で文句を言っている。
龍麻の横顔がちらっと見えた。
整った、綺麗な笑い顔。
何故かその光景を見た途端…犬神は、不快な感情を覚えた。
何かが気に食わない。…何が気に食わないのかわからないというところがまた腹立たしい。
…ふん、と鼻をならして、犬神はガタガタと準備室のドアを閉めた。
自分の感情をつきつめて解析する気も特にない。そんな無駄な考え事をするより先に、とりあえずやる事はある。
さしあたっては、明日の授業の資料作成。
チョークの粉があちこちにつき、ところどころに指の跡までついている教師用の生物の教科書を、机の上にぼんっと放り投げる。
ばらばらとページをめくりながら、通り一遍の説明資料を書き出していく。
ふと京一の言葉が頭を掠めた。
『てめえの教え方がヘタなんだよ』
…知った事か、と呟く。
知った事か。わからなくて困るのは最終的には俺じゃない。
……。
胸のポケットから乱暴に煙草を取り出し、一本くわえると火をつけた。
ゆっくりと、深呼吸をするように紫煙を吸い込み、はきだした。
とりとめのない苛立ちを、強引に落ち着かせようとする。煙草の力まで借りなければならない事を情けなく思いながら。
「…どうかしてるな…」
何かを振り払うように頭を2、3度軽くふり、机の前の窓をあけて外を見る。
空は暗い茜色に染まっている。もうすぐ日が完全に落ちる、そんな色だ。
窓の下で、帰宅する生徒達の他愛ないおしゃべりが聞こえている。
なんとなく人の声を聞きたくなくなって、ピシャッと窓を閉めた。
そして、そのまま。机に頬杖をついて、何をするわけでもなく犬神は窓越しに空をみつめていた。
 
 
いつの間にか、外はすっかり暗くなっている。生物準備室も電気をつけていないせいで暗闇の中だ。
窓の外がうっすらと明るいのは、街の明かりだろうか。
そんな事を考えながら、犬神は窓の方へと歩み寄った。
静かに窓を開ける。生徒の喧燥はもう聞こえない。
月が、昇っていた。
中途半端に光を放つ、不安定な半月。
犬神は窓枠に軽く寄り掛かり、煙草に火を付けた。ライターの火が一瞬だけ辺りを浮かび上がらせた。
紫煙が窓の外へと流れていく。
今日の月は、ともすればそんな薄い煙にすら光を遮られてしまう。
そんな月と、それに依存する自分を疎ましく感じる。そんな事を思う事自体、自分の精神状態が不安定な証拠だ。
いいかげん自分にうんざりする。
何が一体そんなに気に食わないんだ、俺は…
考えないようにしていた事を、いやいやながら反芻させた。
思い出す一場面。
…そうだ、あいつの笑い顔が目に入った…
「―――緋勇、龍麻…」
「…はい」
「!?」
犬神は驚いて煙草を取り落とした。独り言に対し、返ってくるはずのない返事がいきなり返ってきた。
窓の外に落とした煙草が、赤い光の線を引いて落ちていく。その先に、先程の返事を返した当人が立っていた。
犬神のいる生物準備室の窓の方を見上げている。
「犬神先生…呼びましたか?」
「…ああ、まあ…」
「…あの…そっち、行ってもいいですか?」
「構わんが…なんだ?」
「わからない所があるんですが」
そこまで言うと、龍麻は生徒玄関の方へとかけていった。
…ふうっ…と犬神は大きく息をついた。
驚いた。窓の下に人がいる気配にすら気付かなかったほど、深く考え事をしていただろうか。
まあ、もっとも満月でもない限りそうそう感覚が鋭いわけでもない。
まして今日のように不自然な精神状態では…
苦笑して、犬神は頭を掻きながら入口へむかい、これから来る客人の為にとりあえず部屋の電気をつけた。
ほどなく、パタパタと階段を駆け上がってくる軽い足音が聞こえた。
足音は自分のいる部屋の前で止まる。コンコン、と小さくノックして、龍麻は遠慮がちにドアを開けた。
「失礼します…」
「ああ。ま、とりあえず座れ」
電気のついた明るい部屋の中に入ると、龍麻はまぶしそうに目を細めながらも安心した表情をみせた。
「よかった、さっきは先生いないかと思いましたよ、電気ついてなかったし…」
「帰るところだったんでな」
つい意地悪な物言いをしてしまい、はっとして犬神は口をつぐんだ。しまったと思いつつ龍麻の顔を覗き込むと、案の定罰の悪そうな顔をしたまま固まっている。
「……ごめんなさい…」
曇った表情に、妙な苛立ちを覚える。
そんな表情をする龍麻に対してなのか、そんな表情をさせた自分に対してなのか…
だめだ。今日の自分はおかしい。
「で、何がわからないんだ?」
さっさと切り上げようと、強引に話を進める。
「あ、あの、明日の授業に使うっていう資料の…」
……?
「資料?」
「はい。だから、あの…まとめておけっていってた本の…」
何の事を言われているのか判らない。犬神は、腕組みをして首を捻った。
龍麻の方も、その犬神の様子に困った表情を浮かべる。そして、自分の鞄の中から本を一冊、取り出した。
「この本の…ちょっと専門的な言葉が多くて…この辺がよくわからなくて」
そう言ってページをぱらぱらとめくる。その本は…
「…いや、ちょっと待て、緋勇…」
「はい?」
「…なんでお前がその本を持っているんだ?」
「…えっ?だって…犬神先生、京一にこれ渡して、まとめるようにって」
「ああ。確かに蓬莱寺に渡したが…」
「だから、京一に渡して…」
「………」
「………」
二人とも顔を見合わせたまま黙り込んでしまう。
そのうち、龍麻の方が何かに気がついたらしく、突然大きく目を見開いた。
「あっ…せ、先生…これって」
「ん?」
「『京一に』やれって言ったんですか?!」
「…ああ、そうだが…なるほど、そう言う事か…」
ようやく奇妙な行き違いの原因が判った。犬神は肩を竦めると、椅子に深く座り直した。
「京一ぃ…あの野郎…」
龍麻は、騙された怒りより、むしろ恥ずかしさで赤面しながら言った。
「『明日の授業で使うから、ちょっとまとめておいてくれってさ』って言って俺に本手渡したから…てっきり犬神先生が言伝頼んだんだとばかり…」
「…あいつはそういう悪知恵は働くんだな…」
犬神はため息をつくと、目の前の龍麻を見つめた。
龍麻は、妙に落ち着かない素振りを見せている。ここでの居心地が良くないらしい。
目の前に、やけに意地の悪い自分がいる。当然といえば当然だった。
だが…。
「とりあえず、蓬莱寺は今回のテスト、約束どおり赤点だな」
腹立ち紛れにそう呟く。すると、今まで少し俯いて視線をさ迷わせていた龍麻が、はっとした様に顔をあげた。
何かを言いたそうな目が、犬神の視線とぶつかる。
「どうした」
「………」
先生は、と口を開きかけて、また龍麻は黙ってしまった。
何を考えているのか。大概の人間ならその態度や顔色から察しがつく。伊達にここまで生きているわけではない。
だが、またしても視線を逸らした龍麻の表情からは、何も読み取れない。
俯いている。長めの前髪が、顔に翳を落としている。
…顔が見たい。はっきりと。
その行動は、殆ど無意識だった。
龍麻の肩をいきなり掴む。ビクッとして、龍麻が顔を上げた。その顔にかかる前髪を、もう一方の手で半ば強引にかきあげる。
そのまま、額まで露になった顔を上向かせたまま固定する。
龍麻は…泣き出しそうな顔をしていた。頬が、緊張の為か紅潮している。ほんの少し恐怖の色を覗かせているが、何故…泣き出しそうなのかは全く判らない。
「どうした。何を考えている、緋勇」
何故…というのは、今の自分の行動の方だ。何をしているんだ。何がしたいんだ、俺は…―――
「お、俺…帰り…ます」
あきらかに震えた声で、龍麻が言う。
「ごめんなさい…これ、京一に…やらせます…から…」
そう言って、その場から逃れようとするが、犬神の手がそれを許さない。
強い力で龍麻をおさえつけ、無言で龍麻の顔を見つめ続ける。
「先生っ…離して、くださいっ…」
はじめて、龍麻が拒否の声を上げた。その声には涙がまじっている。
「京一の…とこ…行かなきゃ―――」
龍麻の口から『京一』の名前が出た瞬間。
犬神は、抑えようのない感情に突き動かされた。
掴んでいる肩を力任せに引き寄せる。そのまま。
抱き締めた。
「―――っ?」
突然の出来事に、龍麻は犬神の腕の中で身じろぐこともできずに、ただ身体を固くしている。
「先…生……」
腕の中で、くぐもった声が聞こえた。
―――――馬鹿な感情だ…。
こんな感情は、自分の持つべき感情じゃない。こんな…―――
しかし、全てを否定するには大きすぎる、激しい感情。
自嘲の笑みをうかべながら、犬神は龍麻を抱き締める腕に力を込めた。
そのまま、目の前にある絹の様な髪に、唇を近づける。
…自分の口から出た声は、やけに苦しそうだった。
「…行くな…」
腕の中の龍麻の身体が、僅かに震える。
「行かなくて、いい…緋勇…」
考えた事もなかった。自分が…こんな感情に支配されるなんて。
だか、認めざるをえなかった。
自分は―――嫉妬したのだ。
龍麻が、京一に笑いかける。
龍麻が、京一の事を心配し、京一の所へ行くと言う。
たかがそれだけの事に…心を乱されたのだ。
龍麻は、沈黙している。
抱き締める腕を少しだけ緩めると、固くなっていた身体から徐々に力が抜けていくのが判った。
「…すまん」
そう呟くと、犬神はゆっくりと身体を離そうとした。
龍麻は何も言葉を発しない。だが…
降ろしていた腕が、躊躇いがちに犬神の背に回された。
広い背中の、白衣を軽く掴む。
そして、犬神の胸に顔を埋めた。
―――これが答えだというように。
自分の腕の中から龍麻を解放しようとしていた犬神は、もう一度、今度は優しく抱き締める。
そのまま、じっと。
お互いをその腕の中に捕らえたまま。二人は動こうとしなかった。
 
 
どのくらいの時間が経ったのだろう。
お互いの熱を惜しむようにゆっくりと、二人とも身体を離す。
「…すまなかったな…」
龍麻の耳元で囁くと、首を横に振った。
「ごめんなさい…」
見ると、龍麻はその白い肌を首筋まで真っ赤にして、盛大に赤面していた。
熱く火照った頬を両手で包み込み、犬神は先程のように乱暴にはせずゆっくりと自分の方を向かせた。
「緋勇…どうした?なんでお前が謝るんだ」
「そ、その…―――」
上向かされて、犬神と目が合った龍麻は、顔を逸らすこともできず潤んだ瞳で犬神を見つめた。
やがて、ぎゅっと目をつぶると意を決したように口を開いた。
「…お、おかしいんです、俺…今日は…」
「何がだ」
「……悔しかったんです…!」
強くつぶった目の端からつうっと涙がこぼれ、紅潮した頬と犬神の手を僅かに濡らした。
指でその涙を掬い取るように拭ってやると、涙を流したことに初めて気がついたのか、慌てて自分で顔を擦る。
そして、消え入りそうな声で告げた。
「…先生…京一のことばかり心配してるから…」
「…なに?」
「だって先生、京一の点数悪かったの気にしたりとか…やっぱり『手間かかる子ほどかわいい』のかな、って…」
「……」
「…バカみたいですよね…こんな事考えるのって…。でも、今日…京一が呼び出されて、それで…戻ってきた時に、先生のタバコの匂いがして……それがすごく…」
ほんの少し、犬神の手が震えたような気がして、龍麻は薄く目を開けた。
途端、犬神は―――笑い出した。
「くくっ…ははははっ…」
龍麻は思わず目を大きく見開いた。何故笑われたかより、犬神が声を上げて笑ったこと自体に驚いたらしい。
「せ、先生…?」
犬神は、笑わざるを得なかった。
本当に今日はどうかしている。二人が二人とも…―――
笑うのをやめると、自分の事を笑われたと思ったのか、龍麻が複雑そうな表情を浮かべている。
犬神は微笑んだまま顔にかけていた手をそのままに、ゆっくりと自分の方へと引き寄せた。
「あっ…―――」
小さく声を上げた龍麻が、次の瞬間ぎゅっと目を閉じた。
そっと、唇が重なる。
先刻までの苛立ちが嘘のような、優しい空気。
その空気に包まれて、龍麻の緊張が解けていくのが判る。
自分の腕の中に、改めて龍麻を閉じ込めて、耳元に唇を移して囁いた。
「おかしいのは…お互い様だ」
「え…っ?」
「お前こそ、蓬莱寺の事を気にし過ぎだ」
「……」
腕の中から、真黒い大きな瞳を大きく見開いて、龍麻は犬神の顔を見上げた。
その紅く染まった目元に、思わず唇を寄せた。
軽く目を閉じながら、龍麻は犬神に聞いた。
「先生、それって……先生も…悔しかったって…」
「さあな」
…そんな生易しい感情ではなかった気がするが…な―――
笑いかける犬神に、照れながら龍麻はぎゅっとしがみついた。
「…タバコの…匂いがします……」
「…移してやろうか?」
その意味を察して尚も真っ赤になる龍麻に、もう一度。
唇を重ねた。
 
 
「しょうがない…蓬莱寺は今回の赤点、見逃してやるか」
「…先生…やっぱり京一の事気にしますよね」
「……赤点って事にすれば、お前これから蓬莱寺のところへ行くだろう?」
「う…だってそれは…」
「だから…だ」
その言葉に、龍麻はまだ何か言いたそうにしている。
「…蓬莱寺に甘くなるのが気に入らない…か?」
「…いえ、もういいです…」
龍麻のせいである、という事実にどこかジレンマを感じるらしい。それを誤魔化すように、窓の外を眺めている。
「…きっと…月のせいですよね…」
ふと口をついた龍麻の言葉に、犬神は目を見開いた。
何がだ?俺でもあるまいに…
その言葉が聞こえたかのように、龍麻は続けた。
「月が半分しか見えないから。だから…俺もなにか、足りない気がするのかも」
「ふ…なるほどな」
―――こいつの方がよっぽど…状況を把握しているな…
背後から腕を回し、包みこむ。龍麻も、回された腕をそっとつかんだ。
「『埋まった』んだろう?」
腕の中で、龍麻は小さくこくん、と頷いた。
お互いさまだな。
そう呟くと、龍麻は犬神の腕をつかんでいる手に僅かに力を込めた。
 
 
欠けた月は、もう気にならなくなっていた。
 



End.   


 もうなんか最後訳わかんない話ですね(爆死)。
 もうちょっとSSの勉強してきますう(泣)。    
…京一FANの方、マジですみません…