絶え間なく続く雨音は暗い空と共に周囲の音を吸い込んで地面に到達する。 風もなく、ただ垂直に大地へと降り注ぐそれのせいで景色も滲んでいた。 犬神は小テストの採点の手を止めて、半分ほど開いたままのカーテンから窓の外を眺めた。 とは言っても、窓をつたい落ちる雨水のせいで外の様子など見えたものではなかったが。 時計はまだ5時前を指している。 この季節では十分に明るい時間のはずだったが、今見える空は暗い。 「雨か・・・・・・」 犬神は誰にともなく呟き、机の隅に押しやられていた灰皿としんせいの箱を引き寄せて代わり にあらかた採点の終わったテスト用紙を脇へよけた。 安っぽい百円ライターの小さな音が、他に誰もいないこの部屋にはよく通る。 一度ゆっくりと煙を吸い、吐くという動作を行って、犬神は目を細めた。 その顔が少し険しさを含む。 「誰だ?」 振り返らずに声をかけた先は彼のいる生物準備室の入り口。 引き戸はきっちり閉まっていて、ドアにはめられた磨りガラスは向こうの様子が全くわからな いようになっている。 「・・・どうしてわかったんですか?」 やがて静かにドアを開けて中に入ってきた男子生徒は、少し悔しそうな顔で呟いた。 「まだ残っていたのか? もう下校時刻は過ぎているぞ。さっさと帰れ」 聞こえない振りをした犬神は振り返らない。 「雨、止むまで待とうと思ったんですけど。全然止まないもんだから」 「俺も傘は持っていないぞ」 次に来る言葉が何となく予想できて、犬神は先回りをした。 ため息をついて椅子をくるりと反転させると、どこか嬉しそうな龍麻の顔に視線がぶつかった。 いつの間にこんな側まで。 「今度は気配読めなかったでしょう?」 ぼさぼさの頭をかき回して、犬神は立ち上がった。その動きに合わせて龍麻が後ろへ下がる。 少しばかり、犬神の中で悪戯心が持ち上がった。 「どうして、ここへ来た?」 灰皿に煙草を押しつけて、龍麻との距離を詰める。 「どうしてって、それは・・・」 本能的にまずいと感じたのか、龍麻は逃げ腰だ。その腕を捕らえ、殊更ゆっくりと眼鏡を外す。 「せん、せ・・・」 何かに射すくめられたかの様に、龍麻の身体が強ばった。瞳は犬神の眼差しに固定されたまま、 ほんの僅か怯えた様な色を含んでいる。 「お前は、知っていたな」 犬神が人とは違う事を。どう違うかは言えないまでも、その、並外れた感覚で。 ごくりと、龍麻が唾を飲み込んだ。 「もっと・・・知りたいか?」 犬神の正体を。 「・・・え・・・」 犬神は龍麻の後頭部に手を当てて引き寄せ、顔を近づけた。 ぴくりと龍麻が反応する。 耳元へ唇を寄せ、吐息と共に吹き込む。 「冗談だ」 一瞬、その場の空気がそのまま固まった。 「せっ、先生―――ッッ!!」 ばっと犬神から離れ、龍麻は顔を真っ赤にして叫んだ。 「何て冗談言うんですかッ!」 「本気にしたか?」 皮肉気に、しかしどこか楽しそうに犬神は笑っている。 龍麻はその場にがっくりと膝をついた。 「何か・・・僕って遊ばれてる・・・?」 犬神は項垂れて何やら呟いている龍麻をそのままに、彼の機嫌を取るべくコーヒーを入れ始めた。 「――何か、話があったんだろう?」 コーヒーの香りにつられて復活した龍麻を眼鏡の奥から見つめる。 「何でもお見通し、ですか」 そう言った龍麻の顔が寂しげだったのは否めまい。 犬神もその顔に苦い笑みを刻んだ。 彼とて全てを知っている訳ではないが。それでも、何も知らずに巻き込まれている龍麻には犬神は 知っているのに何もしない、気楽な傍観者の様に見える事があるのだろう。 「俺は、お前の話を聞いてやる以外は何も出来ないからな」 何度彼を助けたいと思った事か。宿星に操られるまま戦い、傷ついていく龍麻を。何度、己の正体 を晒して彼をその庇護の下に置きたいと思ったか。 だが、犬神には結局、こうやって奇妙な教師として接してやる事ぐらいしか出来ないのだ。彼等が 気付かない様、陰からそっと、ほんの少し助言を与える事ぐらいしか。 それによって龍麻が僅かなりとも安堵を感じてくれればいい。救いなんて大げさなものは自分の範 疇外だから。 「そう・・・ですね」 龍麻はしばらく考え込んだ後、緩く首を左右に振った。 「先生、これからも僕の話、聞いてくれますか?」 はっきりと見上げて来る龍麻の目は、どこまでも真っ直ぐだ。 「あぁ。お前が望む限りはな」 「だったら、今は言わないでおきます。全部片づいたら、その時に、ちゃんと言えると思うし」 決意を秘めたその瞳を、犬神は深く追求しようとはしなかった。 その代わりに立ち上がり、龍麻の頭を軽く叩く。 「濡れて帰るのも、悪くないだろう」 白衣を脱ぎ、上着を纏って手ぶらのまま入り口へ向かう。 「早くしろ」 「・・・ッ。はいっ!」 わたわたと片づけを終えて、龍麻は入り口へダッシュした。 勢い余ってぶつかりかけた所を、犬神が呆れ顔で抱き止める。 「気を付けろ」 渋い顔で注意する犬神だったが、対する龍麻はあまり反省していないようだ。 「初めてですね。一緒に帰るの」 「・・・そうだな」 微笑みかけてくる龍麻にまんざらでもない様子で、犬神は答えを返した。 途中までだが、普段と変わらない道のりも退屈ではないだろう。 珍しく龍麻に触れるのもこの蒼白く煙る雨のせいだということにすれば良いと、犬神は一人苦笑を落とした。 End. |