月満ちる夜―― 教師という平凡な仕事を終えたその帰り道、犬神杜人はとある公園に立ち寄った。 本当は寄るつもりなどなかったのだが、美しく咲き誇る桜に魅せられて、つい足を止めてしまっていた。 「夜桜、か――…」 公園を囲むように立つ木々が、風に揺れてさやさやと音を立てる。 風に吹かれ花びらが舞い散る様は何とも風情があり、暗闇の中、街灯に照らされ白く浮き立つ桜木は実に幻想的だった。 それはまるで―― ――まるでアイツの肌のように白く―― 犬神は近くにあるベンチに腰を下ろした。そしておもむろに取り出した<しんせい>を一本口に咥え、ライターで火を点ける。 瞳を閉じると、瞼の裏に見えるものは愛しい少年――緋勇龍麻の肢体。白く滑らかなその肌は、俺を惹きつけてやまない。 あの少年の柔肌を…思い出すだけで体が熱くなる。 (オマエを抱きたい…この胸の中にオマエを閉じ込めてしまいたい…) 龍麻と共に生きて行く限り、恐らく一生つきまとうであろう己の淫らな欲望。今日に限ってその思いが俺の中で強くなる。 それはきっとこの月のせいだ。月の<力>がさらにその欲望を膨らませる…。 犬神は肺一杯に溜め込んだ紫煙をゆっくりと吐き出し、夜空を見上げた。 「…龍麻――…」 「――呼びましたか?」 「――?!」 返ってくるはずのない声が聞こえ、犬神はその声のした方へと振り返った。 「偶然ですね。犬神先生」 そう言って綺麗な笑顔を見せた人物は、今自分が心の中で思い浮かべていた緋勇龍麻だった。 まるで自分の心中を読み取ったかのようなその登場に、犬神はしばし言葉が出なかった。 「こんな所で先生に会えるなんて思ってもみませんでした」 「――それはこっちの台詞だ。こんな夜遅くに何しに来た?」 「桜、見に来たんです。先生もそうなんでしょう?」 龍麻は子供に尋ねるように小さく首を傾げ、静かに微笑む。そして犬神の所まで来ると、その隣りに腰を下ろした。 「先生は…桜、お好きですか?」 「…」 スキ? キライ? どうなのだろう…? 夜桜に誘われてここにいるのは確か。 だが、それは本当に「桜」に惹かれたからだけなのだろうか。 桜の色に龍麻の肌を重ねて見てしまったからなのではではないのだろうか?…わからない…。 「…嫌いじゃない…」 犬神は煙草を咥えたまま曖昧な答えを吐く。それを見て、龍麻は「先生らしいですね」と一言言ってクスッと笑った。 邪なことを考えていた矢先の龍麻の登場。犬神は僅かに動揺し龍麻から視線を逸らした。 「そうだ…今度お花見しませんか?別に昼間じゃなくても、こうやって夜に来るのもイイと思うんですよね」 「他の奴等と行け」 「もうっ、またそう言う〜。いいじゃないですか、たまには二人でデートするのも。ねっ?いいでしょう?ね、ねっ??」 龍麻は犬神の腕にしがみついて、その腕を激しく揺さぶる。 「俺は行かん」 「行きましょう!」 「行かないと言っている」 「連れて行きます!」 龍麻が腕に力を込めれば込めるほど、犬神はあらぬ方向を向いて無視を決め込む。どちらかが妥協しない限り、延々とこのやりとりは続くことだろう。 一体、先程までのシリアスぶりはどこへ行ってしまったのだろうか…。 「いい加減、男なら潔く諦めろ」 「男でも諦められないものもあるんです!」 頬を一杯に膨らませて龍麻が犬神を睨む。まったく…幼稚園児レベルの感情表現だな。 「ね〜、先生ってば〜。お願いですぅ〜〜っ」 「コ、コラッ。あまり揺するなっ。煙草があるんだから危な――」 その刹那――。 「――!」 「…?!」 今までじゃれ合っていた二人に緊張が走る。 二人の身体が僅かな異変を察知した。 彼等を取り巻く周囲の<氣>が大きく揺らぐ。犬神でも龍麻でもない、別の邪悪な<氣>がどこからか押し寄せてくる。 犬神と龍麻は顔を見合わせ無言で頷くと、臨戦態勢に入った。己の<氣>を高め、精神を集中させる。 「…」 どこからともなく湧き出てきた霧が、背中合わせになった彼等の周り覆い、あっという間に二人の姿を隠していく。 瘴気の混じったこの霧――明らかに<人ならざる者>の仕業だ。 「――何か…いますね」 「ああ」 すでにお互いの姿は見えないくらいにまで濃い霧が立ち込めている。 静まり返る空間――。もう周りは何も見えない。桜も星空も、自分の足元でさえ霧によって隠されていた。 (厄介な霧だ…下手に動かない方がいいか?) それとも先手必勝、先にこちらから仕掛けるべきか…。どちらにしろ気を抜くわけにはいかない。 「――ぼんやりしてるなよ、龍麻」 …だが、いくら待っても返事は来なかった。もう一度龍麻の名を呼んでみるが、やはり返事は聞こえない。 (――おかしい。アイツの気配を感じない…) 後ろを振り返って龍麻の姿を探すのだが、そこに見えるのは延々と広がる霧の海。 今し方まで、確かに龍麻は自分の背後にいたのだ。この背中がその感触を覚えている。それがいきなり消えてしまうはずなどない。 (何処にいる?) 瘴気に満ちた空気の中、精神を研ぎ澄まし龍麻の<氣>を探る。しかし、いつまで経っても彼を見つけることはできなかった。 「ハマったな…」 完全に<氣>を感知することができなくなっている。 どうやら気づかぬうちに相手の術に掛かってしまったらしい。恐らく龍麻の方も同じはずだ。 (龍麻…) 今日は俺にとって都合のいい<満月>だというのに、こんなことになろうとは…。 龍麻に対して欲情していたのが祟ったか?そうでなければ、これくらいのことは事前に防げたはずだ。…まったく、俺としたことが――…。 犬神はほとんど灰になりかけた煙草を足で揉み消すと、突然振って湧いてきた厄介事に溜息をついた。 「――せい。犬神先生…」 「…龍麻?」 ふと濃霧の中から聞こえてきた声に、犬神は目を凝らす。前方にぼんやりと姿を現したのは龍麻だった。 「先生…よかった…ご無事だったんですね!」 龍麻はひどく安心した顔をしてこちらに駆け寄ってくると、いきなり犬神に抱き付いた。 「怖かったです…とっても――…」 「――」 犬神の腰に両手を回してその胸に顔を埋める龍麻。だが、なぜか犬神はそれに対して何の反応も示さなかった。 突き放すことも抱き締め返すこともせず、ただ黙って龍麻のことをじっと見つめている。 「先生…どうして抱き締めてくれないんですか?」 「さぁな…」 龍麻が寂しそうな顔で上目遣いにこちらを見るが、それでも犬神は顔色一つ変えない。 犬神の冷ややかな表情に、龍麻は悲しそうな顔をして静かに身体を離した。 「…」 すると…何を思ったのか、龍麻は自分自身のシャツに手を掛け、そのボタンを一つ一つはずしていったのだ。 音もなく地面へ落ちる龍麻のシャツ。霧がかった中に龍麻の白い肌が現われる。 その姿はまるでこの桜に宿る妖精のように美しく、そして艶やかであった。 「先生――抱いてよ…僕の身体を抱いて…」 「――」 薄紅色になった小さな胸の蕾を曝したまま、龍麻は犬神を招き入れるように両手を広げる。 しかし、そんな龍麻の存在などないかの如く、犬神は素知らぬ振りをして再びタバコに火を点した。 「…僕のこと抱きたいんでしょう?…我慢しないで――…」 妖しいほどに美しい笑みを浮かべ、龍麻の手が犬神の頬に触れようとする。が、その直前に犬神の手が龍麻の手を掴んだ。 「それ以上俺に近づいてみろ…」 犬神は咥えていた煙草を空いているもう片方の手で取り、紫煙を吐く。そしてゆっくりとこう言った…。 ――それ以上俺に近づいてみろ――… 「その時は容赦なく――殺す」 「――!!?」 龍麻は大きな瞳をさらに見開いて、驚愕の眼差しを犬神に向けた。 そんな龍麻に対して、犬神は握った手を放さずに言葉を続ける。 「…龍麻に化けるとはオマエもなかなかイイ趣味をしている。だがな…贋者のオマエなんぞ抱く気にもなれん」 口元を吊り上げて笑みを見せる犬神。だがその視線は、今にも相手を食らってしまいそうなほど恐ろしい鋭さを持っていた。 そうなのだ――犬神は初めからこの龍麻が「本物」ではないことに気づいていたのである。 (…贋者に用はない) 俺が抱きたいと思うのは――正真正銘の緋勇龍麻、唯一人。 アイツの代わりは誰にもできない。あの髪の毛、声、唇を持つ「緋勇龍麻」は、この世にたった一人しか存在しない。 そして…そのたった一人の存在が、俺を死ぬまで虜にし続けるのだ。 「うっ…うぐぅっ…ッ」 龍麻――に変化した悪魔の手首に、犬神の爪が食い込む。 その傷口からは人間にあらざる深緑の液体が流れ、魔物は呻きを漏らし、その苦痛に顔を歪めた。 「こ――ロス…オマエの血ヲ…我がモノニッ…」 ――声が変わる。 瞳が獣のように変わっていく。 口元が裂け、血にまみれた牙が剥き出しになる。 もはや龍麻の面影は完全になくなっていた。そこに在るのは、人の器を持たない<闇>の魔物――…。 「手ニいれル…おまエは、我ガ体の一部トなルノダッ!!」 カッと大きく見開かれた眼球が不気味な閃光を放つ。 しかし犬神にはまったく効かず、逆に魔物の行為を愚かだと言わんばかりの嘲りを見せていた。 「おい…もう忘れたのか?俺がさっき忠告してやったろう――これ以上俺に近づいたら容赦なく殺す、と――…」 その瞬間、犬神の手が見えない速さで動いた。 風を切る音――静まり返る空間――…。 眼鏡の奥底で、犬神の瞳が鋭く光った。 「よりによって今日俺の元へやって来るとは――…己の運の悪さを呪うことだな」 そう言い終わるや否や、目の前に立ちはだかる魔物の体がズルリと不気味な音を立てて真っ二つに裂けた。 「ウグ…ぎ、ぐぅ…ガ、ギィャアアア――――ッッ!!!!」 魔物の断末魔の声が轟く。地面がヒビ割れるような最期の叫びに、犬神は軽く鼻で笑った。 「愚かだな」 今宵は満月――狼にとっては最良の時。<人狼>の血が体内で滾る。 自ら死を選ぶというのなら来るがいい、俺の元へ――。俺が引導を渡してやろう…。 犬神は消え行く魔物の姿を見下ろしつつ、ポケットから<しんせい>を取り出した。 To be continued...... |